はじめに

葛藤のある場面で私達は苦しさから逃れるために「その場しのぎ」をするようです。それが成功して何らかの改善・解決が見つかればいいのですが、それが見つからない場合、心はかなり苦しい状況になります。この「こころの防衛行為」を知っておくことは、自分がどのような状況なのかを知るのに役立つかもしれません。また、警告サインとなるかもしれません。家族・ケアギバーの方には患者の心理状況を知る参考になると思われます。ここに書かれていることは「精神分析」という学派の考え方であることと、ガンという病気の関係者を想定して書かれていることに、注意してください。

 

「危機理論・・・心理的危機を乗り越える過程」    ( 坂田 三允 : 「最新がん事典」から )

人は、ストレスの多い出来事に遭遇すると、不安や緊張が高まり、いつもの習慣的な方法では、問題を処理することが困難になって、危機的な状況におちいります。

フィンクは、危機的な状況におちいった人がたどる特有の心理的な経過を四つの段階に分けて表現し、危機の構造を示しました。ここでは、その四つの段階について説明します。

 

衝撃の段階

最初の心理的なショックを受ける時期です。強い不安を感じ、混乱した行動を示します。一時的に取り乱し、右往左往し、しばしばいわゆるパニック状態におちいります。思考が混乱し、状況を理解したり判断して計画することができません。動悸が激しくなったり、喉が渇いてからからになったり、胸苦しさを感じるなど急性の身体症状が表れる場合も少なくありません。

このようなときには、あらゆる危険からその人を安全に保護することが大切になります。パニックにおちいっている人には周囲の人々の言葉は耳に届きません。落ち着いた環境を準備し、必ず誰かがその人のそばに付き添い静かに見守ることが必要です。また、激しい混乱のためにエネルギーの消耗があるときには、精神安定剤や鎮静剤が必要な場合もあります。

 

防御的退行の段階

 自分に危険や脅威を感じさせる状況に直接的、現実的に直面するのがあまりに恐ろしく、圧倒的であるために、自分に起った現実から目をそむけたり、まるでそんなことなど起らなかったかのように心の奥に押し込めてしまったりして、自分を守ろうとする段階です。現実からの逃避や否認、退行などの心の仕組み(防衛機制)が働きます。人はこのような心の働きによって不安を軽減させ、心を安定させていくのですが、このようなときには、周囲の人がそのような状態にある人を支持し、心理的な安全を保証することが大切です。自分の病気に無関心であったり、陽気にふるまったり、子どもっぽい甘え方をしたりする患者さんの行動は理解しにくいかもしれませんが、無理に現実に目を向けさせようとすることは、それ自体がその人にとって脅威となり、その後の関係を悪くすることにもなりかねませんので、注意してください。

 

 承認の段階

 防御的退行によって少しずつエネルギーを貯えて現実を吟味しはじめる段階です。自分に起った圧倒されそうな現実に直面し、怒りをともなう抑うつ状態や、悲しみ、無力感、あるいはふたたび激しい不安、混乱、退行などを示し、もしも、この状況に打ちのめされれば自殺を企てたりする場合もありますが、適切な支えがあれば、次第に新しい現実に目を向けていくことができるようになります。

 このとき大切なのは、その人の気持ちを怒りの表現をも含めてしっかりと受け止め、励まして現実が受け入れられるように支えることです。

 無力感を増大させないように欲求にはできる限り早く応え、将来への希望や展望を示すことが必要です。

 

 適応の段階

 現実を認め、建設的な方法で、積極的に状況に対処する段階です。自分に残された能力、周囲の状況を受け入れ、将来のことを考え、新しい出発をするのです。このとき必要なのは、その人に現実的な自己評価をしてもらい、もっている能力や資源を最大限活用して、満足が得られるような試みを促すことといえましょう。

 

 

「心の仕組みの理解・・・防衛機制」            ( 坂田 三允 : 「最新がん事典」から )

 「わたしたちは、人とかかわるとき、できれば相手を理解し、信頼して、より良い関係を築いていきたいと願っています。けれども、他人の心の中はなかなかわかりません。長い間同じ家に住み、何から何まで分かっているつもりになっていても、状況が変わればお互いの気持ちも変化してしまいます。あるときは分かったような気がしても、次の瞬間にはまた別の人に出会っているように感じることもまれではありません。同じ出来事をみても、二人の人が同じように感じるとは限りません。私達は、よく「相手の身になってみれば」という言葉を使いますが、本当に相手の身になることはとても難しいことです。ちょっとした心のすれ違いが大きな溝になっていく場合もありましょう。何気なく口にした言葉が相手にまったく異なった意味をもって伝わってしまうこともありますし、こちらが真心こめていった言葉が歪められて受け止められてしまうこともあります。病気の人を看病して、よりよい介護をしたいと思っているのに、どこかで何かがずれていってしまい、お互いにすっきりしない思いが続いていくことは少なくないと思います。

 どうしてそのようなことが起るのでしょうか。ここでは、人の言葉や行動を導く心の仕組みについて簡単に述べてみたいと思います。

 

 私達は、自然、物質、社会、人間関係などのさまざまな要素から成り立つ環境のなかで生活しています。私たちが生きていくためには、これらの外的な条件に順応しなければなりません。一方、私達はさまざまな欲求をもっています。これには、食べることや眠ることなどの生理的な欲求のほかに、愛したい、愛されたい、自分を認めてもらいたいなどの社会的な欲求もあります。私達は欲求が満たされることを願ってはいますが、欲求がすべて満たされるとは限りません。

 たとえば、欲求としてもっていても社会的に認められないものであるために自制することもあるでしょうし、自分の能力を過小評価して諦めてしまう場合もありましょう。また、周囲の目を気にして、見栄や恥ずかしさのために躊躇してしまうこともありますし、さらに欲求を満たすために努力しても、さまざまな外的条件によって行く手を阻まれてしまう場合も多々あります。このように私たちが欲求を満足させようとしているときに、内的なあるいは外的な障害に出会って欲求を満たすことができない状態を欲求不満といいますが、問題はそのような状態に直面したとき、どのようにしてそれを乗り越えるかということです。

 私達は欲求不満の状況におちいると、多かれ少なかれ、心の安定を揺り動かされ、緊張し、不安やストレスを感じます。人はそのような緊張状態に長く耐えることができないので、心の安定を取り戻すためにいろいろな行動を起こしますが、その行動は必ずしも現実に適応した効果的なものばかりとは限りません。私達は自分の行動は自分の意志でコントロールしていると思いがちですが、実際には、私たちが意識できるのは、心のほんの一部にすぎないからです。

 人の心に無意識という部分が存在することを見出し、精神分析を創設したフロイトは、自分を守るための無意識的な心の働きとして「防衛」という概念を用いました。防衛というのは、それを意識することで、不安になったり、不快になったり、苦痛や罪悪感、恥などを体験するような欲求や衝動を意識から追い払う心の働きを「防衛機制」と呼んだのです。

 防衛機制から生じた行動は、無意識的であるために、また非現実的なものであるために、いったんは心の安定を取り戻すことができたとしても、状況が変化したわけではないので、問題の本質的な解決にはつながらないだけでなく、状況をより悪くしてしまう可能性も秘めています。とはいえ、防衛は自分をまもるための心の営みにほかならず、それが一時的なものであるならば、その間に現実に直面できるだけのエネルギーを貯えて、改めて問題に取り組んでいくことを可能にするという面もあるのです。ここでは、一般的によく使用される防衛機制について説明します。

 

 「否認」

 現実に生じていることを知覚しながら、それを認めると、不快、不安、恐怖、恥などを感じてしまうような外的な事実や自分自身についての現実を、そのものとして認めない心の働きが「否認」です。否認は現実からの逃避という側面を持っています。例えば、痛みや吐き気などの身体症状を自覚したときに「こんな症状はよくあることだ。病気なんかじゃない」と無理に健康を装ったりすることや、がんと診断されてもそれを認めず放置したり、がんではないといってくれる医師を求めていくつもの病院をめぐり歩いたりすること、あるいは苦痛がないのに検査で異常を指摘されて「なんでもありませんよ、検査だけです」といったりすることがあります。

 このようなとき、周囲の人々は「痛いのなら病院に行けば良いのに」と思ったり、「がんだったら早く治療したほうがいいのに」と思ったりします。それはそれで間違いではないのですが、否認している人にとっては、少なくとも「今」は現実に直面できない状態なのですから、無理に現実に直面することを強調してしまうと、混乱したり、その現実に圧倒されてしまうかもしれません。このような否認は一時的なものであることが多く、しばらくして気持ちが落ち着いてくれば、現実を検討することが可能になってくるはずです。

 

 「反動形成」

 自分の中に許しがたい衝動が起こってきたときに、衝動とは逆方向の態度を無意識に強調する心の仕組みが「反動形成」です。たとえば極端な例ですが、殺してしまいたいほどの憎しみを感じている相手にやさしく接するような行動をとるような場合です。長期にわたって治療を続けているにもかかわらず、その成果がほとんどなく、かえって悪化しているような状態にある患者さんが、その主治医にばか丁寧に接したり、周囲からみて、ちょっと「すぎる」と思われるほどに感謝の意を表現したりするのも反動形成です。このような場合、その心の奥には激しい怒りや敵意が潜んでいるのです。また、がんを指摘された人が、「なあに、がんなんてなんでもない。おれはそんなものには負けないよ」と強がって見せる場合なども反動形成にあたります。

 反動形成は、自我(欲求と外的条件をつなぎ合わせて、自分の欲求が外的な条件に適応するようにはからう働きをもっている心の一部分)が理想的な面を誇示するものなので、その行動や表現はしばしばとても大袈裟で、不自然であったり、ぎこちなかったりしますので、どちらかといえば周囲の人にわかってしまうことが多いといえます。

 

 「置き換え」

 「置き換え」というのは、欲求不満があるとき、欲求の対象を本来の対象とは別の、本来の対象よりは安全で満たされやすい代理物に向けかえることをいいます。

 たとえば、弟や妹が生まれた子どもが指しゃぶりをしたり、お気に入りの毛布やシーツを片時も離さないのは、母親の乳房に対する欲求を指や毛布やシーツに置き換えているのです。先生や親に対する敵意を弱いものに向けるいじめっ子や、上司に叱られたサラリーマンが後輩に八つ当たりする場合も置き換えです。また、自分のがんを治してくれない医師に対する敵意、あるいは治らない運命に対する呪いや怒りをもつ患者さんが看護師や家族に向けて八つ当たりしたりするのもこの例です。

 患者さんは、医師に対しては従順にしていなければ、自分によくしてもらえないのではないかというような危惧を心のどこかに抱いているので、本当に怒りを向けたい対象は医師であるにもかかわらず、自分に対する攻撃があからさまに返ってくることがないと思われる看護師や家族を代理にするのです。このようなとき、どなられたほうは「何も悪いことしていないのに、どうしてどなられるのかしら」と悲しくなったり腹を立てたりしがちですが、看護師や家族までが患者さんにとって脅威となってしまったら、患者さんは自分の怒りや敵意の持って行き場がなくなって、状態がいっそう悪くなってしまうかもしれません。

 置き換えは、無意識のうちに行われているので、そのときには患者さんにもわかっていませんが、冷静になったとき、自分のしたことの意味が分かる場合もあり、そのようなときにはあとで何らかのかたちで謝罪の行動がみられます。

 その気持ちを穏やかにやさしく受け止めることが、患者さんの心を安定させるのに役立つのです。

 

 「投影」

 自分の無意識の中にそのような感情や欲求があることに気づいていなかったり、拒否している感情、欲求などを他人のなかにみつける心の仕組みが「投影」です。たとえば、激しい憎悪を無意識のなかにもっている人が、それを自覚せず、かかわりをもっている相手に対して「あの人は、わたしを憎んでいる」と思い込んでしまったり、あるいは自分の力を過小評価して、自分など愛されるはずがないと自分の恋を無意識のうちにあきらめ、恋敵を応援するようなこころの働きです。このような例は、わたしたちの周囲にはたくさんあって、親が子どもに自分の夢をたくしたり、妻が夫の成功につくしたりするのもこの例です。

 患者さんが「あの看護師はどうもぼくを嫌っているようだよ」といったようなときには、患者さん自身がその看護師を嫌いだと思っている場合が多いようです。そしてこのような心の仕組みは、ときに被害妄想(他者から危害を加えられるという妄想)にまで発展することがあります。たとえば病院で使用しているシーツには消毒や洗濯がすんだものでも、しみがついていたりすることがあり、それがたまたまその人のところに配られてしまったにすぎないにもかかわらず、「あの看護師はぼくに嫌がらせをして、こんなしみのついたシーツをもってきたのだ」と思い込んだり、「あの看護師のもってきた食事はいつも味が変だ、毒でも入れているんじゃないか」と疑ったり、それが高じて「毒が入っているにちがいない」と思い、その看護師が出勤している日には病院の食事が食べられなくなってしまったりするのです。

 どちらかといえば、普段は他人の悪口をいったりすることができないようなおとなしい人や、善悪の区別がはっきりしていて、悪いことは許さないし、自分は悪いことは決してしていないと思っているようなタイプがこのような状態に陥ることが多いようです。

 なぜなら、そのような人の心のなかには人を嫌ったり憎んだりすることは悪いことだという価値観がしっかり根付いているために、自分の心のなかにあるそのような感情を自分のものとして感じ、認めることができないからです。それでも、疑念の間はまだよいのですが、思い込んでしまうとなかなか訂正できないのが妄想の特徴でもあります。訂正しようとして「そんなことあるはずがない」というような対立する姿勢をとると、かえってその思いを強くする可能性があります。

 「わたしにはそんなふうには思えないけど」という程度のやわらかな否定をしつつ、食事ができないようなら、患者さんの好きなものでも届けるというような対応をして様子をみてゆく必要があります。もちろん、医師や看護師にはそのことを伝えていただきたいと思います。

 

 「退行」

 「退行」は目の前の不愉快な状況や不安を避けるために、今の年令よりもずっと幼い頃にとっていた行動パターンに逆戻りすることです。子どもが弟や妹に親の愛情を奪われてしまうのではないかという不安から、親に必要以上にまとわりついたり、おねしょをするなど、赤ん坊の状態を再現するような行動をとることが退行の例としてよく取り上げられます。極端な甘えや泣き叫びも退行の例です。また、病気のときには誰でも多少なりとも退行するのが普通です。

 これは病気を治すためには必要なことで、適切な依存行動のもとになるのです。けれどもこれが行き過ぎると、回復を遅らせますし、ほかの患者さんにも影響を及ぼします。たとえば、寂しさや不安をまぎらわせるために看護師を独占しようとしたり、手術のあとで、自分でできることが増えてきているにもかかわらず、なんでも看護師や家族にやってもらおうとしたりするのは決してよい結果をもたらしません。

 家族の方も「不必要な援助や過度の援助をしないことが患者さんにとって必要な援助」なのだということをわかっていただきたいと思います。

 

「合理化」

 「合理化」というのは、葛藤や罪悪感をともなうような自分の行動や態度、考えなどに対して論理的に妥当な説明付けをし、それによって不安や葛藤を解消しようとする試みです。つまり、自分でひき起こした失敗や罪悪感などを直視し、認めると、自分がだめになってしまうような感じがして、もっともらしい、それでいて実はでたらめな因果関係を結び付けてその場をとりつくろったり、自分を納得させることです。

 合理化の有名な例はイソップ物語の「きつねとぶどう」の話です。おなかをすかせたキツネがぶどう畑に忍び込み、ぶどうを取ろうとして何度も何度も飛び上がりましたが、どうしてもぶどうの房に届かず、疲れ果てて叫ぶのです。「誰でも好きなものが取ればいいんだ。あのぶどうは酸っぱいんだから」と。ぶどうを手に入れることができなかったきつねには、実際にはぶどうが酸っぱいかどうかは分からないはずです。けれども、「酸っぱい」とすることで、手に入れることができなかったという事実をとりつくろい、自分を納得させたわけです。

 合理化の例は、私たちの日常生活のなかでも、たくさん見られます。自分の失敗を他人のせいにしたり、道具や天候のせいにして、自尊心を保つことはよくあることです。屁理屈、こじつけ、言い訳も合理化の一つのかたちです。たとえば、検査のために「朝の食事はしないでください」と言われていた患者さんが、それをすっかり忘れて、おせんべいを食べてしまったとき、「朝ごはんを食べるなとはいわれたけれど、せんべいを食べるなとはいわれなかった」と主張するような場合がありますが、これなどは確かに論理的に正しいのです。看護師は「朝起きてからは何も食べたり飲んだりしないでください」といわなければならなかったのですが、一般的には食事をしないということの言外に含まれるものを私達は感じ取って理解することのほうが多いので、屁理屈と受け取られても仕方がないでしょう。

忘れたという失敗を認めることは、看護師からだめな人と思われたり、「今度は忘れないでくださいよ」と怒られたりするおそれがありますので、それを避けるためにはやむをえない行動かもしれませんが、その場は切り抜けられたとしても、かえって信用をなくしたり、嫌な人と思われてしまう可能性は否定できません。

 患者さんの頼みを忘れていて、それを指摘されたとき、とっさに「忘れていたわけじゃないのよ。忙しくて暇がなかったの」とか「天気が悪くてできなかったわ」と言い訳したり、とりつくろったりすることもときには必要かもしれませんが、それが何度も続けばけんかのもとにもなりかねません。基本的には失敗は失敗と認めて謝ることが大切といえましょう。

 

 「切り離しと知性化」

 「切り離し」は、自分にとって好ましくない体験が自分を傷つけるのを防ぐために、理性でとらえることのできる体験だけを残して、その出来事にともなった衝動や葛藤をすっかり忘れてしまい、置き去りにすることです。また、「知性化」は、「切り離し」をもとにして衝動から切り離された出来事に理由付けし、知的活動によって感情をコントロールしようとする心の仕組みです。

 切り離しの例としては、たとえば、誰かとけんかをしたときには、少なからず支配欲や敵意などの嫌な気分がともなうものですが、その気持ちは切り離して、けんかをしたという事実だけを覚えているような場合があります。幼い頃の思い出が、ときの流れとともに美しくなつかしいものになっていくのはこのためです。けんかをしたときには、その相手を憎んだり、怒ったりしていたはずですし、そのためにその相手と疎遠になっていたりすることもあるのに、そのような気持ちはすっかり置き去りにされ、「けんかしたことがあるなあ。いいやつだったのに。いま何してるんだろう」というような思い出し方になってしまうのです。お年寄りがよく口にする「近頃の若い者は・・・」という愚痴は、自分の若い頃の体験が美化されて記憶されているため、現実の若者の苦悩がわからず、出てくる言葉ともいえましょう。

 たしかに、嫌な体験をそのままありありと思い出すことが多ければ、憎しみや怒りが持続して、あるいは後悔ばかりすることになって、わたしたちの人生は暗いものになってしまうかもしれません。けれども実際には、その体験を冷静に客観的に把握し直して、そのときの気持ちを整理しておかない限り、体験にともなう感情は心のなかに押し込められただけにすぎず、解消されてはいないのです。

 また、知性化の例としては、友人との関係に悩む人が、現実にその相手との問題に取り組むことを避け、一般的な友情論を展開したりすることがあげられます。がんであることを告げられた人が、さまざまな不安や恐怖を切り離して意識から締め出し「わたしの病気はとても重いようです。治療法もいろいろあるようですが、難しいらしいですね」などと淡々とまるで他人事のように語るのも知性化の仕組みによるものです。一見たいそう冷静にみえるので、周囲の人々はさまざまな苦悩が解決されているかのように誤解してしまうことがあるのですが、実際は頭のなかだけが整理されているにすぎず、苦痛への恐怖や治せない医師に対する攻撃や反抗などの感情が未整理のまま心のなかに押し込められているのです。このようなときには、患者さんが現実の感情に直面できるようになるまで待つことも必要ですが、積極的に退行を促すとともに、ありのままに感情を表出しても大丈夫だと感じられるような雰囲気をかもし出しておくことが大切といえましょう。

 

以 上 

 

 

 

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