しなやかな心で病気と向き合う・・・精神疾患(気分障害)の受容と療養環境の整備について
私達は多くの場合、精神保健教育を受けていません。一般教育制度の中には存在しません。ですから、精神保健についての知識を持っていません。当然、精神疾患についての知識もありません。精神疾患も身体の病気と同じで、早期発見・早期治療が大切だと言われています。「おかしい」と思っている時期・感じている時期に治療を開始できれば治りも良いそうです。
しかし、皮肉なことに「無知・知らないこと」からくる「精神疾患」についての差別と偏見は患者自身の中にあり、私達はまずは自分の中の偏見や差別感と向き合わなければなりません。そしてそれを乗り越えなければなりません。現実には「乗り越える」のではなく「しかたなく受け入れる」というのが適切な表現であり実態に近いと思います。それでも受け入れることができればいいのですが、なかなか受け入れることができない人が結構多いのです。「受容」ができなければ「乗り越える」こともできません。乗り越えることができなければ、いつまでも自分を責め続けたり、卑しめたりすることになります。
「○○しなければならない」・・・これは気分障害の患者には辛いというか、病気の性質上無理な面があります。この病気の患者になってしまっては、それでなくても辛いのにさらに鞭打たれるようなものなのです。しかし、これが今の現実です。この現実は否応無く私たちに襲いかかるのです。私達はどうしたらいいのか、どう対処したらいいのか分からないままこの津波に飲み込まれていきます。病気そのものだけでなく、社会の怠慢や不備による打撃までこうむります。人生を生きていくうえでの必要な知識として、社会人としての常識として、QOLを低くしないためにも、精神保健の知識は必要なのです。
病気からの早期の回復のためにも、患者自身のQOLのためにも、自分が精神疾患の患者であること、気分障害という病気の患者であることを適切に受け入れることが重要だと、私は自分自身の経験から、またこの間に出会った仲間を見ていて思います。
しかし、「適切に受け入れる」と書きましたが、それは人によって病気になるまでの体験・知識・理解の仕方・環境などが違うでしょうから、「適切に受け入れるために必要なもの」を確定・固定するのは困難だろうと考えます。ですから、これから書くことはあくまでも私の個人的意見でしかありません。私が考える方法論なのです。その人なりの病気の受容というものが、患者が100人いれば100通りあるのだろうと思います。それでいいのでしょう。
問題意識を持ったきっかけについて説明します。「うつ病」は薬物治療と休養が必要だと言われています。本にもそう書かれています。しかし、その「休養」の内容が明確にされていません。以前に「MDA―JAPAN」の患者プログラムでこの「休養」の核心は「脳を休ませる」ことだと教わりました。そうだと思います。「うつ状態」をそのまま放置してこじれてしまうと、多くの場合は重症化して「うつ病」にいたります。軽症なら自然に治ることもあるのでしょうが、多くの場合は社会生活に支障が生じてきて医療機関を受診して、患者となります。
仮面うつ病といわれる身体症状だけだと、自分が精神疾患だと受け入れるのは難しいでしょうが、医療機関に結びつくだけでも良い方です。
精神疾患としての自覚というか「病識」がありながら、自分が「精神病の患者」になることを恐れて医療機関を受診しない人が現実にはたくさん存在すると言われています。私もそれに近い状況でした。私の場合は「うつ病予備軍」という自覚がありながら、ただ恐れるだけで医療機関に受診しようとはしなかったのです。精神疾患の患者になるということが恐ろしいということ、それだけでなく「職場生活での将来」に支障が生じることが恐ろしかったのです。この二重の恐怖というか心配が私たちを苦しめます。扶養家族がいれば、なおさらです。
ところで、患者となって治療・療養を始めても意欲もエネルギーもありませんから、病気に関する本を読んで勉強することはなかなかできません。この「休養期」の過ごし方のポイントはさきほど書いた「脳を休ませる」ことにあります。しかし、このことが分からなくて、自分で自分にストレスをかけてしまう人が多いのです。そのストレスの内容はほとんどの場合、上に書いたことなのです。その他に家族などの人間関係の問題が加わります。
自分の雇用・生活が危うくなるのではないか、自分は落伍者・おちこぼれではないか、自分を知る人間に心配をかけていいのか、扶養する家族の生活をどうするのか、精神疾患の患者である自分を受け入れられない、自分がいなくて仕事・家事はどうなるのか・・・確かに心配することの材料はありすぎるほどあります。しかし、この時期の最も重要なことは自分の脳にストレスをかけずに休ませることなのです。
ミーティングに来るたびに同じ心配を繰り返し話す人がいます。悪循環に陥っているのです。いわゆる「ぐるぐる思考」です。これでは職場を休んでいても休養になっていません。結局、回復が遅れることになります。最悪の場合は自殺行為の危険性があります。また、ある人は自分が病気休職をしていることを受け入れられないでいることに気付きません。非常に動揺して、落胆して、混迷しています。そうすると、それが家族に伝染してしまうことがあります。ともすると、影響を受けやすい子どもに問題が出てしまうことがあります。「不登校」・その他です。また、配偶者がうつ状態になってしまうこともあります。この落ち込みは、価値観・人生観が「パワー信仰」である生き方をしてきた人、世間体を気にするような人などに強いように思います。そういった価値観・考え方はその家族のものとして醸成されることが多いからです。(無理して仕事をするためにリタリンを使用するという人もいます。)(家族に問題が現れることがいけない・・・と言っているのではないのです。うつ病の患者になることがその人にとって必然であることもあると思います。苦しい体験をしますが、その経験の中から貴重なことを学ぶことができるかもしれません。思考が柔軟になり、視野が開けて別な人生の可能性が開けるかもしれません。今後の人生に気分障害の病気体験が生きるかもしれません。同じように、たとえば子どもが不登校になっても、その体験はその子の人生に貴重なものになるかもしれません。「○○になってしまったから・・・」全てを否定的に断定することはないのです。その現実を直視して、受け入れ、必要な修正をしたり、そこから成長できればいいのだと思います。ただ、患者本人にとって困難なことを多くすることはないと思うのです。)
「自分の現実を受け入れる」・・・当たり前のことなのですがこれが必要なのです。(と思います。) 私達は多くの場合は必要にせまられて、嫌だけれども受け入れざるを得ないので、状況から強制されて「受け入れて」います。それでもいいのです。自分が精神疾患の患者であるという現実を受け入れて、そこから出発して治療・療養生活を送るということが重要だと私は考えます。良い意味での「開き直り」と言ってもいいかと思います。
「精神疾患の患者である自分」を許しましょう、責めるのを止めましょう。運命を呪うのはもう止めましょう。自尊心を低くするような思考パターンを繰り返すことは止めましょう。そんなことを繰り返しても建設的なものは出てきません。そのことに気付くのが重要なのです。
自分を楽にしてあげるのです。自分を慈しみ愛情を注ぐのです。十分に苦しんだ「自分」をいたわってあげてください。
この「受け入れ」ができない人・しない人は病気についての勉強・学習をなかなかしません。これはその人の個性の問題もあるかもしれませんが、何らかの方法で病気についての知識を持つことは「病気の悪循環」から「療養の為の良い循環」に切り替えるために必要だと思います。
自分の現実課題から「逃げる」「誤魔化す」という生き方をしている人は病気と向き合うということをしません。そういうときは医師が適切に病気と向き合うように指導・助言すればいいのですが、現状ではそのように認識されていないようです。残念です。
家族が勉強して、日常生活のなかで折に触れて患者を「教育する」のが常識的な発想でいいと思います。そのために「心理教育」では「家族セミナー」を優先して実施していただきたいと考えます。本人が外出できるようなら、最近はうつ病などの講演会が増えていますから、それに参加するのもいい方法だと思います。また、「MDA-JAPAN」のような心理教育を行う団体のプログラムに参加することができれば幸運です。自分で本などで学習するようになれば、「良い循環」になるのではないかと思います。セルフヘルプグループのミーティングに参加すれば、病気の知識だけでなく、自分自身や「自分のケース」についての認識も深まるでしょう。
気分障害という病気は「再発」の可能性が高いと言われているので、病気についての知識を持って、生活をコントロールする必要があると認識されています。(ただ、注意していても再発することはあるようです。自然に出てくる場合もあるのです。) 再発予防のために自分の「警告サイン」を把握しておくことが有効だと考えられています。(例えば、日記を書いて、睡眠状況・気分・身体症状・ストレス状況などをチェックする。) そういう意味で病気を受け入れないままに回復してしまった人は再発の可能性が高いかもしれません。あてにならない「完治」とか「克服」ではなく、自分の病気との付き合い方を発見・工夫することがその人の「QOL」を高めることになると言われています。
「受容ということ ・・・ここまで他者を受容する作業について述べてきました。もう一つ、自分が自分を受容する場合があるのです。
とくに本書との関連でいえば、自分の障害をどう受容していくかです。「受容」の一般定義からはなれて、以下、典型的な例をあげていきます。
死の受容については、よく知られているように、否認―怒りー取り引きーうつ状態をへて到達します。(キュープラー・ロス) この場合の受容は、わが身におこる不可避な事態を正確に理解し受け入れていくことです。理解し、うけいれていくには、もう一人の自分がいります。ひたすら生にしがみつこうとする自分を説得し、事態を認めさせるもう一人の自分との闘いがキュープラー・ロスのプロセスです。短い時間の間に、もう一人の自分を育てられた人のみが、「死を受容する」ことができるともいえます。だから、受容は、絶望でもなく、あきらめでもないのです。
障害児の母親が、その子の障害を受容していくプロセスも「死の受容」のプロセスと同じです。違うのは、死の受容は、否認―怒りー取り引きー抑うつー受容と一直線(ひとまわり)なのに対して、こちらは何回もまわるらせん状になっていることです。子どもの成長につれ、受容したつもりがあやしくなり、また同じプロセスを回って、受容しなおし、次第に深い、本格的な受容へとらせん状に昇りつめていきます。ここでも、もう一人の自分が育っていかないとむずかしいのです。
分裂病(統合失調症)や、躁鬱病の子供をもった親たちが疾病を受容していく場合も基本的には同じです。しかし、身体障害児の場合より、はるかにむずかしく、時間がかかります。これらの病は思春期以後に発病し、病気の経過も多彩です。また、よくなったり悪くなったりをくりかえす例も多く、特有の障害をのこすからです。その都度、このプロセスは、止まってしまったり、ときに逆まわりするからです。とても親一人だけではこのプロセスをすすめることはできません。大勢の手助けがいります。その手助け人の少なさ(あるいは病を隠すために手助け人を組織しえない)ゆえに、家族の疾病受容は困難をきわめるのです。しかし、いかに困難であろうとも、家族が治療的立場に立てるか否かは、どれだけ家族の疾病受容が深化しているか否かにかかっているのです。
ここまでは、おわかりいただけると思います。一番むずかしいのは精神障害者が、自分の障害をどれだけ受容できるか・・・です。そしてここでも同じく、受容できた人ほど、治療+リハビリに自ら参加し安定したやすらぎのある生活が得られるのです。
分裂病を例にとってみましょう。
分裂病は、その症状がはげしいときは、感覚過敏におちいり、しばしば認知がズレてしまいます。考えや感情のコントロールを失うこともあります。判断が歪み、興奮状態にも陥ります。
だから、回復してきて自分をとりもどしてきたときがつらいのです。正気にもどったということは、今まで混乱していたということを知ることになるからです。自分が狂気の嵐にとらえられていたことをみとめること(疾病の受容)は大変つらいことです。それに耐え切れず、再び混乱の中に戻ってしまうことも少なくありません。
うまく正気にソフト・ランディングしても次項でのべるような「精神の障害」が残るのです。生活下手、人づきあいのぎこちなさ、自己吟味能力の低さなどを「障害」として受容することは、きわめてむずかしいのです。そしてここでも「障害の受容」なくしては「障害の克服」はスタートしないのです。
精神障害者は自分の障害を、これまた同じくひとまわり(否認―抑うつー受容)ごとに、少しずつ受容していきます。ひとまわりごとに受容が深まっていくのです。しかしこの作業を一人でまわすことは、とてもつらいし、困難です。だれかといっしょにやらないと、逆まわりして新たに失意と無為を生じてしまいます(村田信夫のいう新たな「無為の形成」)。一番いいのは、家族といっしょにたすけあいながら受容しあっていくこと(相互受容)です。家族教育の必要性、家族の治療参加の大切さとは、ここをいうのです。
できることなら、加うるに一般市民が相互受容の相手であってほしいものです。一般市民が、精神障害者が自分の障害をうけいれるのをたすけるため、相方となって「精神の障害」を理解し、うけいれてほしいのです。一般市民のこの参加こそ、精神障害者が自分の障害を受容し、克服していく一番大きな力なのです。市民との相互受容がすすむ姿をノーマライゼーションといいます。老人も子供も障害者も安心してくらせる社会のキーとなる理念です。」 ( 「治せる精神科医との出会いかた」 中沢 正夫 朝日選書 )
弱肉強食の社会のなかでいわゆる「勝ち組」としてパーワーゲームをしてきた人や、世間体を気にする生き方をしている人、仕事依存的な生き方をしてきて自分の能力に自信を持って生きている人などにとって、この病気の患者となることは当人にとって強烈な「挫折」体験となり、なかなか受け入れることができないだろうと思います。「トラウマ体験」と言ってもいいと思います。上手く切り替えることができればいいのですが、難しい場合もあると思います。
上記の文章に出てきたキュープラー・ロスの「死の受容」について紹介します。(ガンの末期患者の心理プロセス)
(1)否認 予後不良の宣告を受けた患者は「間違いだ、真実でない」という心理反応を示す。これは健全な対処方法である。このとき、患者の訴え、態度をありのまま受け入れることが大切である。
(2)怒り 否認という心理反応が維持できなくなると、あらゆる方向に怒りが向けられる。医療者は、患者の怒りを個人的・感情的に受け取らず、さけることなく理解するよう努めることが大切である。
(3)取り引き 善い行いや、何か我慢することで死が先に延びることを願う気持ちである。
(4)抑うつ(準備的悲嘆) 取り引きがかなわないと悟り、失うものに対し心の準備をするための防衛機制である。患者は何も言わず、ふさぎ込むようになる。このとき、医療者は励まさず、ただ黙ってそばにいることが必要です。
(5)受容 すべてを失う悲しみも終え、死という現実を受け入れる時期をいう。精神的に落ち着き、周囲への感謝の言葉が聞かれる。
「障害受容のプロセス
1.ショック → 2.否認 → 3.抑うつと怒り → 4.適応 → 5.再起
これは障害を受容するプロセス、あるいは「喪の作業」 moaning work のプロセスと言われるものです。これは心理的なプロセスとして考えられていますが、ストレス-脆弱性モデルから言えば、これは生物学的プロセスです。大切な人を亡くしたとき、あるいは重大な障害を受け入れなければならないとき、また障害のある子どもを持ったとき誰でも体験する正常なストレス反応だからです。けれどもそのそれぞれの反応をどう感じるかは個別的で、そこが心理的な部分でしょう。落ち込んでしまう自分をだめだと思うかもしれませんし、最初のショック時には自分がおかしくなったと思うかもしれません。正常な反応であると保証されることが重要ですし、家族の方が、現在どの時期にいて、その状態をどのように体験しているか、どう感じているかを知ることが適切な援助のためには必要です。
大きなストレスの後私たちは、このプロセスを経ながら生活していかなければなりません。それには最大限の対処技能を駆使し、サポートネットワークを作っていく必要があります。このプロセスを通過するのに一人では非常に多くの困難があります。
また、同じ家族でも、それぞれこの時期が違うと、病気や患者さんへの対応が違ってきて当然で、それが意見の相違のように思えます。そのことも知っておいた方がよいでしょう。ご家族にこのプロセスを説明することは、自責感が強かったり自分の行動に自信がない場合には大変役に立ちます。」 (この部分出典が不明です。分かり次第記述します。)
ミーティングに参加する仲間から出される不満で多いのが、家族が病気について理解してくれないことです。この問題は非常に重大な案件です。
「脳を休ませること」が薬物治療と合わせて治療の柱になっているのですが、それを本人も家族も理解していないケースが意外と多いのです。主治医がこの問題について配慮してくれればいいのですが、家族を呼んで病気の説明と環境調整について相談する医師はまだ少ないのでしょう。本人が耐えられずに、環境が良くないと判断して家を出てしまうこともあります。
この件では、要するに脳を休ませるのに適切な状況に患者を置くことなのです。普通に考えれば、静かでストレスの少ない環境に患者さんを置く、心身ともに休養できる状態にすることです。励ましてはいけないし、責めてもいけない。過保護でも良くないし、過干渉でも良くないのです。休養期のこの時期は、辛いのですがエネルギーが回復してくるのを待つしかありません。回復してくるまでの期間は個々にケースバイケースで長短はありますが、ひたすら「待つ」。これは辛いことですが、多くの先輩がこの試練を乗り越えているのです。回復を信じて、ある意味開き直って療養に専念するのです。この時期にストレスを浴びてしまうと回復から遠ざかるということは容易に理解できると思います。
療養に専念できる環境を保証する・作ることが重要なのです。 家族、友人、職場などの理解と協力が必要なのです。
その具体的な内容は個々のケースに応じて考えることになります。